上司の命令
 上司:板倉重昌の命令は、「細川軍は天草を鎮定後、すぐさま熊本に帰陣すべし。事態の如何を問わず、島原進出を厳に禁ず。」でありました。

細川軍の進行
 11月末。細川軍は状況を分析して、「戦闘の主体は島原にあり。」と判断して島原出動を想定し、1万5千人の兵を川尻に集結していました。
この時期は悪天候のため、川尻から天草渡航は無理だったため、船のみを三角にまわし、1万5千の兵は十一里(44キロ)先の三角まで、陸上起動することになりました。

 当時は川尻から宇土までは海岸道の平道でしたが、宇土から三角までは、宇土半島の山岳地帯に入り、山脈を縦走する難コースでした (現在の遊歩道)。 道は狭いし雨の中、宇土半島特有の赤土で道はヌメヌメ・ツルツル・・・。 甲冑を着ての山道歩行は、かなり大変だったことでしょう。 大矢野に着いたのが12月4日、先陣が敵の本拠地:上津浦に着いたのは、12月8日のことでした。

若様の出陣
 光利公は
12月6日に肥後入りし、8日に宇土に本営を進め、9日には馬で郡浦まで進み、本営を彦左衛門宅に定めました。

 心はやる若様は郡浦に着くや、「天草が見えるところはないか?」と彦左衛門に尋ね、甲冑もゆるめず高所の甲畑
(かぶとばた)登り、更に松の木に登って天草を一望しました。「敵陣へ出陣する門出に甲畑に登るとは縁起が良い。めでたい!」と喜んだそうです。

 翌日「鍋島・立花両軍が島原に向かって進軍中。」との情報が入り、若様はいてもたってもいられず、すぐに郡浦を船出して天草の楠甫
(くすぼ)に上陸し、11日に上津浦(こうつうら)まで進出しました。 そこで富岡城代(先に戦死した三宅藤兵衛)の息子:三宅藤右衛門と握手し、城代以下、寺沢藩を指揮下にいれました。

そのころ四郎は
 天草一揆勢はというと、細川勢が天草に来るという情報を聞き、すでに11月の末には富岡城攻撃をやめて、1万4千もの人々を連れ海を渡り、島原一揆勢と合流して原城に立てこもっておりました。 細川藩勢1万5千は敵のいない天草で、あわれ遊兵になりおおせてしまったという。(笑)

上司の判断ミス
 光利は上司:板倉に島原追撃の意見を申しましたが、上司の命令は「細川勢は残務を寺沢軍に引継ぎ、早急に熊本に帰陣すべし。島原出陣は厳にこれを禁ず。」でした。

若様の御心は
 父の代理で、しかも初陣なのに、敵を目の前にして兵を引き返す無念さ。旗をまいて、すごすごと帰る若様の心中は・・・
「天草四郎〜! もどって来〜い! 海のバッカヤロー〜〜〜!!」
※ このあと若様は、1月4日に島原にて参戦されました。
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天草での一揆騒動を鎮めんと、江戸から一人の若様が肥後(熊本)に送られてきました。
細川忠利の息子:細川光利、花の18歳! 天草までの道のりは遠かった・・・。
四郎VS若様