| 郡浦の働き |
| その後の郡浦 光利と1万5千の兵を送った郡浦は、その後も細川藩の兵站(へいたん)基地[軍要物資基地]になりました。兵站司令官郡奉行:堀江勘兵衛の総指揮を補佐して、彦左衛門は大忙し! 司令官から折にふれ、「彦左衛門よくやってくれた!」とおほめの言葉をいただきました。 上司:板倉の死 さきの失敗の責任をとって、元日に 「上司:板倉重昌が、先頭きって原城に向かい打ち、、銃弾にたおれた。」と江戸に知らせがとどきました。 細川忠利出陣 1月12日、若様の父君であらせられる細川忠利(ただとし)は、出陣命令をうけて、旗本を率いて66挺の大軍船に乗って江戸をたちました。 島原に着いたのは1月26日。 忠利はすぐさま原城を偵察して、その堅固さにおどろいた! 白羽の矢 急襲の無理をみた忠利は、攻撃資材を充分にあつめて、正攻法で攻撃する作戦をたてました。 そこで白羽の矢を、捕り物の件や、光利の天草出陣に際しての軍需品の補給などをおこなった、郡浦庄屋:彦左衛門にあてました。 郡浦の活躍 忠利は彦左衛門を島原によび、棚木1000本・苫(とま)1000枚の至急調達を命じました。[※苫(とま):小屋・舟などの雨露を防ぐムシロ] しかし、村の若い男達はみんな軍務にかりだされ、村には女と老人しか残っていません。 そこで彦左衛門は、老人をあつめて山の木を切らせ、隣村の女達まで集めて木を海に運ばせました。 そして一夜で棚木1000本と、苫1000枚を船に積みこみました。(ホントか?) この舟に彦左衛門みずから乗りこんで、これらの物資輸送の指揮をとり、翌朝出航して無事資材を忠利公に届けました。 (この資材は大いに役にたったてげな・・・。) 新たな任務 彦左衛門はその才覚を認められ、忠利公の信任を得て、現地と熊本の連絡係りを仰せつかり、現地のレポートを、家老に報告する任務があたえられました。 ご褒美 そして、ようやく天草・島原の乱が平定され、細川公は熊本に帰ってきました。 今回の事件で大いに活躍した、彦左衛門と息子の太郎吉は、たくさんのご褒美(ほうび)を頂きました。・・・以下 彦左衛門には、知行三十石。前のとおりの郡浦惣庄屋。 太郎吉には八十石と郡浦定番役。 父子そろって郡浦の姓に改名。代々乗馬御免。 |
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