祇園橋 国重要文化財 本渡市
 11月14日 祗園橋一帯寺沢藩:富岡城代である三宅籐兵衛の率いる本隊と激突し、激しい戦闘になる。両軍の犠牲は数百千にもおよび、川の水は死体と血で真っ赤に染まりました。当時に橋があったかは不明ですが、あったとしても、石橋ではなく、木橋か土橋だったと思われます。
本戸城跡(本渡城跡) 天草切支丹館 
 四郎たちは激戦の上、富岡城代:三宅籐兵衛を、切腹にまで追い込みました。 すぐ下の殉教公園では、両軍戦死者の御霊を弔うドーム型の『殉教戦千人塚』があります。 天草切支丹館では、『天草四郎陣中旗』『矢文』などの天草の乱や、南蛮文化、かくれ切支丹など、400余年の資料を展示しています。
*H22にリニューアルオープンして建物が綺麗になりました。(写真は旧館)
二江 五和町
 領主を自害させただけではすまない一揆軍は、さらに城を落とすべく富岡城に進軍します。 そのときに本陣をおいたのが二江です。写真は二江港。 今ではイルカウォッチングで賑わっています。
富岡城跡 苓北町
上代である父が自害したあとは、息子の三宅藤右衛門が後をつぎました。 唐津軍1500人対一揆勢12000人という人数差にもなんとか持ちこたえた頑丈なお城は、今復元作業が行われ2005年に完成します。 昔からある石垣には、銃弾など戦の跡が残っているそうですが、新しい石垣が多くて、どこにあるのやら・・・?
天草四郎 乗船の地  苓北町324号線沿い
富岡城を落とすことをあきらめた一揆勢は、島原にある原城へ向かうために、ここから乗船し口之津に上陸したと云われています。 十字架の土台は舟を表しているそうです。 同じころ島原の一揆勢が島原城を攻略しようとしましたが、こちらも断念し原城へと向かうことになりました。
原城跡 西有家町 本丸跡を望む
口之津から原城へ。島原勢と合流して、一揆軍は37000人にふくれあがりました。 廃墟となっていた原城を3日で修復し、寒さ、飢え、裏切り、厳しい規律のなか、籠城すること3ヶ月。いよいよ最終決戦を迎えます。 今では桜がたくさん植えられて、昔ここが屍の山や血の海になったことが信じられないくらい、すばらしい公園になっています。 現在も発掘調査中で数メートル土の下には、まだ遺骨や遺品が多く残っています。
四郎の館 原城本丸内 虎口
細川藩の残した資料のなかに、四郎の家と記されている場所です。 四郎が日々祈りをささげた館。 建物は高い石垣の壁があり、本丸が焼けてもまだ残っていたので再度火矢を放たれ、煙ただよう中にいた四郎らしき人物が細川藩の兵士に命を絶たれた場所です。
西坂 長崎市 26聖人殉教公園
四郎らしき者の首は原城でさらされたあと、長崎の出島でもまたさらされて、最後に処刑地だった西坂に葬られました。 四郎を27聖人めにしてほしいな〜と思うのは私だけだろか・・・?
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天草・島原紀行2