ウソがばれる
 はじめはシラをきっていた小左衛門でしたが、ロザリオやマリア像を発見され、とうとう自白してしましました。
「宇土の江部にいる四郎の家族をひそかに天草に連れて来ること。警戒が厳重な場合は宇土町に火をかけ、そのまぎれに乗じて奪還し、帰りは松橋から船で大矢野にもどるはずだった・・・。」
 渡辺小左衛門は切支丹2〜3千人分の大将格とされ、一揆の中心人物なので、この大捕り物で郡浦は大騒ぎ!!

来襲予測
 渡辺小左衛門たちが捕らえられた後から、一艘の小舟が渚に着けずに天草へ戻りました
(松橋にいくはずだった船?)。 敵地大矢野は目と鼻の先の距離なので、小左衛門らの捕縛が知れると、天草勢が押し寄せてきて奪回を試みるであろうと、すぐ予測がつきました。 早速捕縛者を熊本へ護送して、海岸線も監視が強化されました。

夜襲準備
 一方、天草では渡辺小左衛門たちが捕縛されたと知らせが届き、こちらも大慌て!! 小左衛門の父:伝兵衛は、息子たちを彦左衛門宅から奪い返そうと、夜襲の出港準備にとりかかりました。

 その様子を見ていた戸馳
(とばせ)島の庄屋:小左衛門から、郡浦に早舟がやってきました。 「敵地、天草の港が騒々しいので気をつけられよ。」

恐怖の一夜
 反逆者の護衛には筆頭奉行:小林右衛門を頭に、屈強な主力勢がついて行きましたので、残りが手薄です。 大矢野の敵軍は約1000名と推定されるのに対し、郡浦は50〜60名の小勢にすぎません。
 彦左衛門は百姓に鉄砲の練習をさせ、村々の人に召集命令を出し、「今夜さへ耐えしのげは、明日は熊本から大勢の見方が来てくれる。一夜限りの攻防戦だ。」と励ましました。 村人の中には大騒ぎして妻子を伴って山に逃亡したり、郡浦の隣村まで騒ぎは拡大しました。

郡浦の作戦
 庄屋:彦左衛門、郡奉行:永良彦太夫、代官:久留市兵衛、三角の代官で宇土半島防衛司令官の島又左衛門配下の河喜多九太夫らで軍議を開き、攻防戦がたてられました。 郡浦の背後の山々8キロにわたり かがり火がたかれ、海岸線一帯には竹をたてて火縄が結びつけられ時々ゆらせ、あたかも、鉄砲隊がたくさん居ると見せかけました。本当は鉄砲は10挺たらずしかなかったのです。

計画断念
 その夜、天草から偵察にきた船が郡浦の様子を見て、急ぎ帰って報告しました。「海辺には無数の鉄砲が備えつけてあり、背後の山々にはかがり火が不夜城のことく明々としており、その数はおびただしい。 その状況からすると、郡浦には幾千万もの軍勢がひしめいているように考えられます。」 この報告を聞いて渡辺伝兵衛は、夜襲をかけて息子らを奪還することをあきらめました。

作戦成功
 次の日、熊本から大勢の援軍が郡浦に到着し、大矢野軍は郡浦に上陸する機会を失ってしましました。
こうして彦左衛門らの奇策によって、郡浦は事なきを得たのでした。
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怪しい客あらわる
 四郎の姉(福)の婿(渡辺左太郎)の兄にあたる大矢野の大庄屋・渡辺小左衛門と小左衛門の妹婿の瀬戸小兵衛ら6人が、舟で郡浦(こおのうら)の舟津海岸に着き、「宇土町の様子、宇土までの道路事情」を郡浦庄屋・彦左衛門にお尋ねしたいと申し出ました。

 そのころ彦左衛門は、以前より、島原では一揆が起こり天草でも不穏な動きがあると、幕府の命により非常事態にそなえ、海岸の警備にあたっていました。

 父親が留守をしていたため、来客には息子の太郎吉(15歳)が応対しました。 来客を怪しいと思った太郎吉の祖母はなかなかのやりてババアで、太郎吉に知恵をさずけました。太郎吉は小左衛門らに茶をすすめて部屋に案内させ、酒を飲ませて寝いったところを鉄砲で射すくめて縛り上げました。
↑川尻町
維和島
戸馳
舟津
郡浦
大矢野
宇土町
三角浦
新宇土市史 地図・絵図より
江戸時代 宇土郡の道路事情
船津の港
昔ながらの浜
郡浦の海岸
郡浦事件簿
1637年(寛永14年)10月末。敵方の宇土に残してきた四郎の母や姉・妹の身を案じ、大矢野に移そうとして家族奪還作戦が行われました。