益田家跡地 宇土市旭町
 益田四郎。宇土の江部に父、母、姉、妹と長屋に住んでいました。 江部(の)四郎と呼ばれています。 1637年9月末に大矢野に向かいました。 現在の道は二通り、宇土半島の有明海側の国道57号線と、不知火海側の国道266号線がありますが、当時にこの二つの道はなく、宇土半島の遊歩道になっている山道を歩いていったか、宇土の船場川もしくは、松橋から舟で行ったと思われます。
←ここの空き地付近が四郎君の実家跡(長屋跡)
大矢野村 上天草市(2004.3.31誕生)大矢野町
 天草四郎メモリアルホールからの眺め。 大矢野町のほぼ中心部。 大矢野四郎の名前で、天使(アンジュ)として熱心にキリストの信仰を説いた町。 父親の出身地で親戚も多かった。 ここでの四郎は、役人に捕まらないように、家を転々としていたようです。
 物産館では天草四郎グッズがいっぱいあります。
渡辺家跡 大矢野の渡辺家跡地 姉・福(レシーナ)が嫁いだ家
 少年四郎は、何度もこの家に遊びに来たそうな。 姉の福は避難のため(?)実家に帰っていたのですが、不幸にして母、妹、と共に細川藩に捕まってしまいます。 現在も人が住んでおりますので、写真は掲載いたしません。 (ちなみに渡辺家とは関係ありません。)
吹割岩 大矢野町 白涛海水浴場の上
 四郎がキリストの布教活動をしに来たことがあると云われています。 隠れキリシタンの重要な密会場所。 岩の一角の洞窟が、島原の原城と海底トンネルでつながっていて、四郎が逃げ延びたと云われていたが、探検に入った調査団の報告は途中で行けなくなっていたとの事です。 自分一人だけ逃げるような四郎君ではないと思うのですが・・・。 生きていたら良いなと思う人々の心が伝説を生んだのかもしれません。 女性一人で行かない方が無難。(ちよっと怖かった!)

画像:パンフレットより拝借
湯島(談合島) 大矢野町 
 長崎の島原と、熊本の天草の一揆首謀者たちが密会していた島。 天草四郎時貞として、天草・島原の総大将に命名された、歴史的価値のある島です。 鉄砲や刀などの武器もここで製造されていました。
詳しくは【小雪の島旅・ 湯島(談合島) 】をご覧下さい。
南蛮寺跡 有明町上津浦 
 現在は正覚寺というお寺になっています。 上津浦の海岸道入り口から約2q山に入ったところです。 ここで四郎はたくさんの人を前に、布教活動をしておりました。  番犬が吠えて吠えて…参拝客をおいはらってどーする!と思いつつ、寺の中に入りました。 無人でお札やキーホルダーが5百円〜千円で販売されています。
四郎ヶ浜 有明町上津浦 
寛永14年11月13日 天草四郎が率いる一揆勢2千余人は、上津浦に上陸しました。ココの浜の可能性が高いので、四郎ヶ浜ビーチと呼ばれています。そして翌日14日の早暁に、海上、浜辺、山手の三手に分かれ、寺沢藩本拠地の富岡城を目指し出発しました。 史跡案内地図では、上津浦港付近になっているのですが…どっちが本当なのかな?
     島子 【島子合戦 】 有明町
 天草の乱発祥の地。はじめて寺沢藩と肉弾戦をおこなった場所です。 四郎たちは、ここで、寺澤藩:並河九兵衛を大将とする鎮圧勢と遭遇。 すると、それまで寺沢側(幕府側)に呼応いた地元住人の多くが、突然一揆勢側に寝返った! 情勢の急変と、民家の屋敷まわりの竹木(防御柵)で、人馬の動きが自由にならなくなり、並河九兵衛は、「広いところに出て戦え!」と云い、田原である沖の田に移動し、そこで激しく撃ちあう。 多勢に無勢で寺沢勢は敗れ、本戸(現在の本渡市)へ逃げ走った。
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ここでは実際に、四郎君がどのようにして宇土から島原の原城まで行ったのか
その足跡をたどってみます。
天草・島原紀行1