端島の年表
元禄8年(1695) 平戸領民『五平太』なる者、高島で石炭を発見
文化7年(1810) 端島で露出炭を発見。漁民が石炭を[磯堀り]
文化末頃(1817) 佐賀藩、高島炭鉱を採掘開始
慶応4年(1868) 佐賀藩とグラバーが高島で合弁採炭の条約締結。採炭開始

明治2年(1869) 長崎の六海商社が官許を得て採炭(1年で休業)
         鍋島藩が高島炭鉱本格経営のため、深堀藩の藩営炭鉱と民営炭鉱を閉山、
         その後、深堀藩が明治23年まで、端島、香焼島、沖ノ島、伊王島、
         二子島、中ノ島を開発
明治3年(1870) 峯如松(深堀出身)が後を継いで一年足らずで廃業
明治7年(1874) 高島炭鉱『官営』になる。同年『後藤象二郎』へ払い下げ
         渡辺聞櫓(深堀出身)が翌年から洋式で採炭しようとしたが、台風で失敗

明治8年(1975) その後、小山秀(天草出身)に後を託し、開鉱に着手
明治10年(1977) 台風により破壊され廃業
明治14年(1881) 高島炭鉱、三菱会社の経営になる

明治15年(1882) 旧鍋島藩深堀領主『鍋島孫太郎』氏の所有となる
明治19年(1886) 渡辺元が立坑(36m)を開坑。海浜に石垣、堤防、貯炭場などを設置
         高取伊織、鍋島孫太郎より、端島炭鉱の再興を委託される
明治20年(1887) 第一竪坑開さくに着手。日本最初の鋼鉄船『夕顔丸』長崎造船所で進水
明治23年(1890) 三菱社、鍋島孫太郎から端島炭鉱を10万円で買収
明治24年(1891) 蒸溜水機を設置し各戸に飲料水を配給。製塩事業も行う。
         端島坑出炭開始
明治26年(1893) 私立(社立)尋常小学校設立
明治26年(1893) 旧第2立坑開さくに着手(深さ162m) 
日清戦争始まる
         旧第3立坑の開削に着手(明治29年に落成。深さ198m)
明治30年(1897) 第1立坑坑内火災により水没し廃坑
         端島、高島、横島、納屋制度廃止。
端島高島坑夫同盟罷業
         八幡製鉄所開業
明治33年(1900) 端島の戸数93戸。30kw発電機により坑内外点灯
明治37年(1904) 日露戦争始まる
明治38年(1905) 台風により南部西部が破壊され社宅38戸が流出
         
佐世保に電灯がつく
明治40年(1807) 高島・端島間に海底電線ができる。第5回埋立が行われる
明治45年(1912) キャペル扇風機導入

大正2年(1913) 5階建て社宅完成
大正3年(1914) 18尺層発見。炭鉱を休業し金毘羅神社の臨時祭を行う。花火数10発打上げ
         
第一次世界大戦勃発
大正5年(1916) 坑内に少年(14〜16歳)、女夫使用
         日本最初の鉄筋コンクリートアパート4階建て落成(7階建に増築)
         設計者グラバー氏(?)
大正6年(1917) 坑内運搬に馬匹使用
大正7年(1918) 三菱鉱業(株)設立。6階建社宅16〜20号棟完成
         (16-19号は9階建に20号は7階に増築)
         高島二子交流発電所、海底ケーブルより端島坑内外の電力輸送を実施
大正8年(1919) 第4竪坑開さくに着手。
大正10年(1921) 端島が『軍艦土佐』に似ている事から長崎日日新聞が『軍艦島』として報道
         端島小学校が公立になる
大正11年(1922) 上陸桟橋(クレーン式)完成
大正14年(1925) 第4竪坑完成。(深さ370m)
         キャップランプ使用開始。台風により南部が被害を受ける
大正15年(1926) 東京で同潤会最初の鉄筋コンクリート造アパート中之郷、竣工

昭和元年(1926) 長壁式採炭法を試験実施
昭和2年(1927) 昭和館(映画館)開館
昭和5年(1930) 第2竪坑掘下げ工事に着手。台風で西海岸が破壊される
昭和6年(1931) 『夕顔丸』若松営業所より回送され以後社船として運行
         第6回埋立てが行われる
昭和7年(1932) 給水船『三島丸』進水
         馬による坑内運搬をエンドレス運搬に変える
昭和8年(1933) 鉄骨による積込桟橋に改造。女子の坑内労働禁止
昭和9年(1934) 第2竪坑掘下げ工事終る(深さ636m)。端島小学校舎が完成
昭和10年(1935) 右部五片で爆発事故発生。罹災者27名。第3竪坑廃止
         鉱員寮より出火。神社および社宅一部類焼。19号の屋上に仮宮設置
         端島・高島、製塩事業廃止。充てん竹簀使用
昭和12年(1937) 第2竪坑完成 深部開発に着手 
         20号棟の最上階に社立幼稚園
昭和13年(1938) 電話通信開通
昭和14年(1939) 朝鮮人労務者が坑内夫として集団移住を開始
         エネルギー資源が統制され石炭石油が配給制度となる
昭和16年(1941) 年産411,100トンの最高出炭記録。第2次世界大戦勃発
昭和17年(1942) 第2竪坑火災発生
昭和18年(1943) 坑内労働時間制限令廃止 坑内勤務時間12〜15時間となる
         第2竪坑ロープ切断事故発生
昭和19年(1944) 65号棟(報国寮)建設。第2竪坑ヤグラ歪修正
昭和20年(1945) 高島・二子発電所が米軍の爆撃を受け、二坑底坑道まで水没
         石炭運搬船『白寿丸』が石炭積込中に米軍潜水艦の魚雷で沈没(全員無事)
         
長崎に原子爆弾が投下され、終戦。
         朝鮮人労務者送還終了。中国人労務者退島
昭和21年(1946) 高島労働炭鉱組合結成。端島労働炭鉱組合結成。
         炭鉱向特別物資の配給が決まる
         NHK『炭鉱の夕べ』を毎週放送。鉄柱カッペ導入
昭和22年(1947) 公衆電話架設
昭和23年(1948) 社宅入舎割当点数制度実施。
         高島・端島両鉱区に分割認可。人口4526人に急増
         
メイリオ
昭和24年(1949) スキップ捲運転開始
         松竹映画『緑なき島』のロケ・放映。全国に紹介される
         野母商船が長崎ー高島ー端島ー野母を就航
         高浜村立[端島幼稚園]発足(泉福寺)
昭和25年(1950) 高島、端島、崎戸、三山交歓音楽祭を開催
         高島・端島沖、海底調査開始。三菱鉱業金属部門を分離
         朝鮮戦争始まる
昭和26年(1951) 深部区域でガス突出事故、負傷5人。コールカッター導入
昭和27年(1952) 端島プール完成。高浜村役場端島支所建築
昭和28年(1953) 高浜村端島保育所が完成(65号棟10階屋上)
昭和29年(1954) 第1回ドルフィン桟橋完成。海底水道布設工事着工
昭和30年(1955) 対岸の高浜村から高島町に編入
昭和31年(1956) 台風9号、12号より、南部岸壁、ドルフィン桟橋、端島プール破壊
         労組ストに対し、会社ロックアウト
昭和32年(1957) 学校(木造)が全焼、病院、65号棟類焼(新校舎の壁もこげた)
         わが国最長の海底水道完成。
         給水船としての『朝顔丸』は廃船、以後他の事で活躍。
         上陸桟橋台風で水没
昭和33年(1958) 南部プール完成。第2回ドルフィン桟橋完成
         電気釜、冷蔵庫、テレビ、など端島で流行。病院復旧落成
         端島小中学校舎7階建て完成
昭和34年(1959) 人口5259人。台風により上陸桟橋、積込桟橋流失
昭和35年(1960) 端島沖採炭工事に着手。
昭和36年(1961) 上層開発工事疎水卸を中止水没。野母船、せい丸・つや丸就航
昭和37年(1962) 第3回ドルフィン桟橋完成(閉山まで使用)
         社船『夕顔丸』廃船、80年の歴史に幕を閉じる。選炭機改造
昭和38年(1963) 緑化運動。園芸同好。各地区の子供会などで高島・香焼から土を運び
         屋上や空地を利用して花壇、温室などをつくる。
昭和39年(1964) ガス燃焼、下部区域水没放棄。従業員1056人を524人に減員。
         (昨年度人口4873人から3391人に急減)。公民館が完成
昭和40年(1965) 三ッ瀬区域の採炭開始。
         端島開鉱以来の月産35,000t(トン) 能率55,9t/人
昭和41年(1966) 空気充てん機導入。石炭汽缶を重油汽缶に切り替え
         3地区子供会で、18号の屋上に青空農園を作る。
昭和42年(1967) 3地区子ども会、19号に畑、18号に水田を作る。
昭和43年(1968) 急傾斜区域、偽傾斜面払採炭開始
昭和44年(1969) 三菱鉱業石炭部門を分離、10月1日付、三菱高島炭鉱(株)発足
昭和45年(1970) 端島沖、探炭工事中止を公表。体育館・格技室・給食室が完成
         変電所前の組宿舎火災2人焼死
昭和46年(1971) 端島小中学校の生徒で育てた花・木が塩害で枯死
昭和48年(1973) 木造3階より出火、31号棟及びクラブ一部類焼、焼死一人
         三菱鉱業、他二社と合併、三菱鉱業セメント(株)発足
         ゴミ処理場完成。労組主催最後の職場対抗ソフトボール大会
         端島坑の閉山を労働組合に正式に提案
         端島小学校80周年記念大運動会を開催
昭和49年(1974) 1月15日、端島炭鉱閉山式。4月20日高島ー端島航路が閉鎖
         住民全員離島完了

昭和50年(1975) 海上保安庁が灯台を設置
昭和54年(1979) 元端島労働組合を中心に『端島会』を大阪で立ち上げる
昭和59年(1984) 『全国端島会』を設立
         第1回『全国端島会閉山10周年記念』が高島町で行われる(約300人)
昭和61年(1986) 高島炭鉱閉山(11月)
平成6年(1994) 第2回『全国端島会閉山20周年記念』野母崎町で行われる(約250人)
平成11年(1999) 第3回『全国端島会閉山25周年記念』長崎市で行われる(約230人)
         『軍艦島グラフィティ』出版 むらかみゆきこ著
(#^.^#)テレッ!
平成13年(2001) 12月 三菱マテリアルが端島を高島町に寄贈
平成15年(2003) 第4回『全国端島会閉山30周年記念』長崎市で行われる(217人)
         (1年前倒しで気候の良い5月に開催)

以後も、端島会(長崎、関西・名古屋、関東)地区ごとに花見や忘年会は毎年行われる。
全国端島会の終了後は、世代を超え端島小中学校同窓会に移り、端島人の絆は尽きることがない!
 
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