幻の宇土城
 熊本城の宇土櫓をちょっと拝借してみました。大きさや造りは似ていたそうです。(↑の大きさは適当)

 四郎の父:益田甚兵衛は若かりし頃、ここの城に上がったことがあるのだろうか?


もう一つの宇土城(西岡台)
 ついでの豆知識:宇土には城跡が2ヶ所あります。 室町時代に建てられた宇土氏、名和氏というお殿様が城主でした。
小西行長の像
天守閣広場
城 壁
安土桃山時代に小西行長が築いた城です。小西行長は四郎の父:甚兵衛の君主でした。
宇土城址(うとじょうあと) 城山台(しろやまだい)
 現在の天守閣跡は公園になっており、石垣だけが当時のまま残っています。

 1600年の関が原の戦いで、石田光成側についた行長は敗戦し処刑されました。同じ頃、加藤清正に攻められていた宇土城は、行長の死の知らせが届き落城しました。 清正は退職後の隠居の場にと宇土城を残しておりましたが、願い叶わず死去、その後幕府の一国一城令により、壊されてしまいました。

 さらに1638年天草・島原の乱の後は、天草四郎親子の出身地でもあり、キリシタン大名・行長の城だったという事から、幕府の命令で徹底的に壊されました。

 その後できた宇土細川藩は、築城することを許されず陣屋を構えたため、宇土に城が築かれる事はありませんでした。 城跡が発掘されるまでは石垣は土に埋もれていて、現在の石垣もまだ半分は土の中にあります。
宇土の人は小西行長か嫌い!?
 という話があります。 行長は大阪は堺の薬問屋の息子で、武器弾薬などを取り扱い、外交貿易も行うバリバリの営業マンでした。そこを秀吉にスカウトされて大阪城に召しかかえられました。
外商・文化にとても たけていた人物でした。

 行長は秀吉に熊本の南半分をを与えられ宇土城を築いたものの、秀吉の命令で1592年に朝鮮出兵に行かされ、帰ってきたら関が原の戦いに参戦し、結局一度も宇土城に入ることなく、昇天されてしまったのです。
 宇土城には行長の弟・小西隼人が殿様代理として勤めていたのでした。

 名前だけの城主で、ご禁制になっているキリシタンだった事、元家臣の益田甚平衛と息子は幕府に反旗をひるがえした大悪党・・・。 当時の細川藩と宇土の民は迷惑この上なかったのでしょう・・・
熊本城内:宇土櫓
 宇土の城山から移築されたのかも? と云われていましたが、実は宇土町とは関係なく、熊本にお住まいの宇土氏という人がその櫓で治めておられただけでした。
ややこしい お話で・・・ちょっと残念。
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宇土城址(小西城)