| 轟水源と細川家 |

| 轟(とどろき)水源 宇土の土壌は元々海の砂の上にあるため、井戸を掘っても塩水がまじり真水が必要でした。 四郎のいた時代の水事情は良くなかったようです。 江部から水源までは約3kmも離れていますが、もしかしたら四郎もここに来て、おいしい水を飲んだかもしれません。 轟泉(ごうせん)水道 島原の乱以降になりますが、1690年 第二代藩主:細川行孝(ゆきたか)によって日本で最古の上水道が作られました。 水道管の長さは末端の船場川まで4.8kmの長さがあります。 それから約100年がたち、六代藩主の名君:細川興文(おきのり)が水道を陶管から石管に作り変え、現在も近隣の家庭で生活用水として使用されています。 武家屋敷では各戸に井戸をもっていて、階級によって井戸の大きさが決まっていました。 町人の場合は各町内に一つづつの共同井戸でした。 宇土の町中には、まだいくつか江戸時代の井戸が残されています。 宇土細川家墓地苑 水源から少し上に行くと、宇土藩初代からの墓地苑があります。 初代 宇土細川藩主:細川立孝(たつたか)は1637年12月3日、22歳のころに島原の乱に出陣しています。 母:細川ガラシャはキリシタンでしたので、討伐した時はどんな気持ちだったのでしょう。 享年31歳に江戸で没しました。 下の写真の真ん中の丸い墓が、二代藩主 細川行孝(ゆきたか)のお墓です。 1646年に肥後藩54万石から、宇土3万石を分けてもらい宇土藩を設立しました。 ホントはこの行孝が宇土藩の初代になるのですが、父を持ち上げております。 代々の藩主や家老たち重臣のお墓もあります。 |


