9月30日 四郎(16才?)は一人で宇土町から大矢野の渡辺左太郎(姉婿)の家へ向かう。 後日、父の甚平が大矢野に向かう。
10月07日 天草郡 大矢野村 宮津で、天草の盟主(総大将)『天草四郎時貞』の名をもらう。
09日 上津浦で多くの信徒を前に説教をする。
19日 南有馬村の角蔵と北有馬村の三吉に、キリシタンの教えを説く。
24日 湯島(談合島)島原と天草の代表が集まって、四郎は天草と島原の両方の盟主になる。
25日 四郎は親類の渡辺伝兵衛の家に移る。
島原の代官:林兵左衛門が百姓たちに殺される。
26日 四郎は渡辺小左衛門たち50人といっしょに栖本(すもと)の郡代(ぐんだい)の家に行き、キリシタンにもどるように説く。
島原で一揆開始。深江合戦後大手門の激戦になるが島原城は落とせず。
28日 天草で一揆開始。領内の神社仏閣を襲う。
30日 渡辺小左衛門たち組の幹部が、宇土郡の郡浦(こおのうら)にて細川藩に捕らえられ、人質になる。
11月01日 四郎の母、姉、妹たちが、細川藩に捕らえられて人質になる。
04日 四郎は50人もの有力者をひきつれて、島原の有馬にわたる。
08日 有馬の百姓たちが、四郎に誓詞(せいし)をだした。
13日 島原の一揆勢の一部が、天草に加勢に来る。
湯島にもどって原城立て籠もりの話をする
上津浦に上陸して、天草一揆の本陣を上津浦に移す。
14日 午前:島子(しまこ)村で富岡の領主勢と戦う。
島子合戦で勝利する。
午後:本渡合戦で唐津
(からつ)藩城代(富岡城の領主)三宅籐兵衛を討ち取る。
19日 富岡城を包囲する。
22日 富岡城を攻略できずに島原に撤退。
24日 有馬の古城、原城を修理して、たてこもる。
12月01日 島原の原城跡で籠城作戦の準備をする。
03日 一揆軍、天草・島原の各地から海をわたり原城に入る。
総数3万7千人集結する。
10日 原城が幕府軍に包囲されて、両軍はじめて戦火をまじえる。
19日 幕府軍が夜中に総攻撃をしかけたが、一揆勢に追いかえされる。
1月01日 夜明けに2回目の幕府軍総攻撃。
上司:板倉重昌が討ち死にする。
1月04日 松平信綱(のぶつな)と10万の大群が島原に到着する。
幕府側から和漢交渉を求める。
干殺し作戦に入る。 
11日 オランダ船が原城を大砲で攻撃する。
13日 一揆勢より矢文合戦開始
22日 囲碁をしていた時、陸から打たれた砲弾が四郎の袖に当り負傷する。側近の数名が即死する。
2月01日 松平信綱の指図によって、人質となった四郎の母の手紙がとどいたが、無視される。
03日 両軍の代表が大江口(おおえぐち)で会見する。
10日 四郎は原城の一揆勢を励ましてまわる。
2月27日 幕府の原城総攻撃開始。
2月28日
(新暦4月15日)
原城落城。裏切り者(?)の山田右衛門作 一人を除き、三万七千もの全員を虐殺。午後に四郎の首実験が行われる。
 3月  四郎らしき首が原城で獄門にされた後、長崎の出島に送られて再度獄門にされ、西坂の墓地(首塚)に埋められる。人質になっていた四郎の親類縁者や落人のすべてが処刑され、天草・島原の乱 終了。
 
前へTOP次へ
寛永14年1637年)〜寛永15年1638年
 歴史の流れ(年表)