あらまし
バテレンの予言
 「今から26年の後に天地異変がおこり、人は滅亡に瀕(ひん)するであろう。このとき16才の天童あらわれ、キリストの教えに帰依(きえ)するものを救うであろう。」
・・・天草の上津浦で布教していた宣教師ママコスが、幕府によってマカオへ追放されるときに書き残したといわれています。

悪徳政治家
 三代将軍:徳川家光のキリシタン禁止時代、天草・島原はあいつぐ異常気象による凶作に加えて、冷酷非道な天草領主・島原領主のキリシタン弾圧に、百姓たちは信仰と年貢の両方に追いつめられていました。

 決められた年貢を収めなければ、女は水牢に死ぬまで入れられ、男は『蓑
みの踊り』(手をしばり着せた蓑に火をつける)で、踊り狂う様子を見て楽しむありさまでした。キリシタンであればなおのこと、火あぶりや、雲仙の地獄池に生きたまま突き落としたり・・・などなど、残酷きわまるものでした。 首を吊ったり餓死する人も多かったのです。

ヒーロー登場
 1637年(寛永14年)9月末に、一人の少年が宇土から大矢野にやってきました。 江部の四郎15〜16才。 幼い頃から儒学・仏学・神学・南蛮学を習い、長崎に行って中国商人のもとで働きながら、宣教師の教えを受けていたそうです。秀才かつ美少年との記述もあります。

一揆の首謀者たち
 父親は益田甚兵衛
(ますだ じんべい56才)大矢野出身で、宇土の城主であったキリシタン大名の小西行長の家臣でした。1600年、関が原の戦いで敗れた行長の死後は、加藤・細川藩に入ることなく、浪人百姓として一家で宇土に住んでおりましたが、10月はじめに「四郎を迎えに行く」と言ったまま、宇土に帰りませんでした。

 大矢野には、小西行長の元家臣たちキリシタン浪人5人がおりました。 四郎の父親同様、いづれも元戦国武士で戦
(いくさ)にたけた人物でしたが、唐津藩(天草は唐津藩)に入る事をこばみ、百姓となって暮らしていました。

予言当たる
 この年は、ママコス神父の予言から26年後。 予言どおりに桜が狂い咲きしたり、異常気現象がみられ、16才で『習わぬ字を書く』ほどの才能をもった天童:四郎があらわれました。 四郎、甚兵衛と大矢野の浪人たちは、領主の圧制に対抗しようと手を組みました。
(預言書はこの浪人たちが作ったという説もあります。)

準備開始
 浪人たちは四郎を「奇跡を行う神童」とふれまわり、天の使い・救世主『天草四郎時貞』に祭りあげました。 天草の民衆のほとんどを、キリシタンになるようにうながし、信仰心をあおいで一揆の団結をはかりました。

 島原と大矢野の間にある『湯島』では、ひそかに両者一揆勢の幹部が談合し、鉄砲などの武器の製造も行われ、四郎は天草と島原の両方を代表した総大将に任命されました。

(実際のところは後ろに控えている天草や有馬の浪人が指揮をしていました。)


一揆開始
 10月、一揆はまず島原から始まり、つづいて天草も神社仏閣を襲いながら、「キリシタンにならなければ殺す」と民衆を脅し、仲間をふやしていきました。

 四郎たち天草勢は上津浦から本渡を攻め、富岡城まで勝ち進みました。 しかし富岡城は落とせず、細川の大軍が来るとの情報も入り、城攻めを止め、船で島原にわたり、島原一揆勢と合流して、西有家の原城で籠城
(ろうじょう)することになりました。

 合計約三万七千人。戦える男は約3分の1、残りは女や子どもの非戦闘員。生きて地獄なら死んで天国
(ハライソ)へ行こうとの思いだったのでしょう。

幕府の作戦
 このころ、たかが百姓一揆とたかをくくっていた幕府は、次々に入ってくる報告を聞いて大慌て! 一揆を鎮圧するために、九州の各大名を島原に向かわせ、12万4千人もの大軍を送りこみました。

 何度か原城に攻め入ろうとしたものの、智略にたけた浪人衆の指揮のもと、狙撃の名人や、石や糞便(ふんべん)攻撃など、武士の世界ではありえない戦法を使ってこられて、追い返されます。(相手は農民と漁民なので…)

 幕府は原城に甲賀忍者を送りますが、地元の言葉(方言)とキリシタン言葉で意味不明・・・。 城壁に穴を掘って城内に進入しようとしましたが、早くも気づかれて出口で待ち伏られ、返り討ちにされてしまい、奇襲作戦も失敗しました。
 そこで幕府は、一揆軍の食料をたちきるための『干殺し』作戦を行いながら、長崎からオランダの戦艦を呼んで、陸と船から大砲で砲撃しました。

和平交渉
 矢文が交わされ、両者の言い分を言い合いますが、お互いのことが信用できずに交渉は決裂します。 幕府は人質に捕らえていた、四郎の家族や親戚を利用して、城内の非キリシタン(強要された人々)との交換条件を出しますが、一揆側は「城内にいるのは皆キリシタンである」と言い、条件を拒みました。

決戦
 寛永15年2月27日に最終決戦の火蓋はきられ、激しい戦闘になりました。死を恐れず、やみくもにに向かってくるキリシタンたちに、幕府の武士たちは恐怖を覚え、一人も生かすことなく切り捨てました。
 翌日28日、四郎をはじめとする、約3万7千余人の命が天に昇りました。 後日捕らわれていた人々も、皆処刑されてしまいました。 生き残ったのは、一揆の裏切り者といわれる、ただ一人だけ・・・。
この戦で、天草と島原の地からは、ほとんどの人が消えてしまいました。

 幕府軍の戦死者1115名、負傷者6761名(宮本武蔵もいる)、約40万両もの大金の出費。 天下の徳川幕府は大打撃・・・。 その後、天草・島原には多くの移民がなされ、この事件にこりた幕府は、翌年から鎖国
(さこく)を開始しました。

戦いの意義
 天草・島原の乱は、日本ではじめて農民が武士に戦いを挑んだ、日本の歴史上、最大の農民一揆&最大の宗教一揆です。
また日本初の自由民権運動だったとも云われています。
彼らはただ、人間としての自由と平等を求めただけだったのです・・・。
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天草・島原の乱